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年表、人物と来たので港にもスポットを当ててみませう。 3つか4つで飽きる予定。 第一回 ラグーザ Ragusa(伊) +... DOLではヴェネツィア領地で造船修行の港として著名なラグーザは、現在はクロアチア領ドゥブロヴニク(Dubrovnik)と呼ばれています。今ラグーザをぐぐる先生で調べるとシチリア島のラグーザが引っかかるのでご注意を。 起源は古くローマ帝国時代かそれ以前まで遡れるそうです。11世紀頃からヴェネツィア共和国の影響下で発展し14世紀半ばにはラグーザ共和国として独立。後背地のボスニアやセルビアからの鉱石の積出港として栄え、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島に進出してくると宗主権を認めて庇護下に入り、ヴェネツィアに代わって東西交易での中継港の地位を獲得していきます。おそらくDOLとしてはこの辺りの時代背景で港として取り上げられたのではないかと思われます。(その割りにはオスマンではなくヴェネ領地ではないかというツッコミは一切無視します) 15~16世紀に最盛期を迎えたラグーザは17世紀半ばの大地震の影響で緩やかに衰退し、歴史の表舞台からは去るわけですが、さすがヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島の都市です。一筋縄ではいきません。 19世紀初頭にナポレオン皇帝により共和国が解体されると、オーストリア帝国に併合され、2重帝国支配化に置かれます。第一次世界大戦でその支配下から逃れると20世紀初頭にはセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国に編入、1929年のユーゴスラビア独立とともにユーゴスラビア領となり、更に1991年クロアチア独立とともにクロアチア領となりました。 クロアチア独立の際の内戦でアドリア海の真珠と呼ばれた美しい街並みが戦火に曝され、世界危機遺産リスト(1991~1998)に載ったこともありましたが、今日ではホテルやレストランなども整備され世界中から観光客を呼べるクロアチア最大の観光都市として栄えているそうです。 ちなみにジブリ映画「紅の豚」のモデルの一つにもなったそうですよ。さすがアドリア海の(豚に)真珠。 第二回 ダンツィヒ Danzig(独) +... DOLではダンツィヒで知られるグダニスク(グダンスク Gdańsk 波)はバルト海に面するポーランド最大の港湾都市です。 グダニスクを含む周辺地域はポモジェ地方と呼ばれ、12世紀末~13世紀初頭にはデンマーク王国(ヴァルデマー2世)の影響下にありました。13世紀初頭、父であるグダニスク候ムシチュイ1世からその地位を相続した息子シフィエントペウク2世は、デンマーク支配下から抜け、ポーランド国王(クラクフ公レシェク1世)に臣従します。ポーランド王からポメレリアの支配権を安堵されたシフェイエントペウク2世はその後グダニスクに自治権を与えることになります。 自治権を与えられたグダニスクは当時人口2000名ほどの小さな地方都市でしたが、リューベックを模した都市法を導入し、13世紀末までにはポメレリアを分割統治するほどの権力を蓄えました。 14世紀初頭、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)によりグダニスクが占領されドイツとポーランドの間で戦争が勃発しました。ポーランドは勝利を収めながらもグダニスクをチュートン騎士団へ貸与することになります。(カリシュの和約1343年) もともと自治領としての歴史を紡いできたため、チュートン騎士団の支配下でも順調に港湾都市として発達を続けたグダニスクにはこの頃からドイツの移民が増えはじめます。 14世紀半ばにはハンザ同盟へ加入し更なる経済的繁栄を遂げますが、同時に徴税権や裁判権を乱用するチュートン騎士団との対立を深め、15世紀初頭に起きたドイツポーランド戦争(グルンヴァルドの戦い)では再びポーランド側について戦うことになりました。 この戦いでもポーランドが勝利しグダニスクは念願かなってポーランドに帰属…はやっぱり出来ませんでした。チュートン騎士団領は領土割譲などで版図を大きく削るもポーランド王国に隷属という形で残り、グダニスクはその残る部分だったのです。 15世紀半ば、ポーランド王国の庇護を求めてプロシア連合(プロイセン連合ともいう。チュートン騎士団に対抗するための同盟)の設立に参加し、チュートン騎士団の利権排除を目指して13年戦争と呼ばれる戦争を始めます。この戦いでもポーランドが勝利を収め、グダニスクは3度目の正直でようやくドイツの支配から逃れてポーランドの庇護下に入ることになりました。同時にポーランド国王カジミェシュ4世からは自治都市としての特権も認められ、ここから18世紀初頭にかけての2世紀半いわゆる黄金期を迎えることになりました。 DOL的にはちょうどこの黄金期真っ只中ということになり、ドイツ的名称「ダンツィヒ」は影もカタチもない時代と言えますね。なんでダンツィヒになったのか、今度英語圏でのサービスが開始されますが、ダンツィヒの扱いにちょっとわくわくしますw 閑話休題。 ポーランドは移民に寛容な風土があるそうで、上述通りチュートン騎士団の影響でドイツ系移民が増えた時代を経てポーランド人(本国から流入)、ユダヤ人、オランダ人(対イスパニア戦争の難民など)、宗教改革の時代にはルーテル派(ドイツ中産階級)、カルヴァン派(オランダ中産階級など)の受け入れもしたそうです。民族間、宗教間で対立しなかったのはそれだけ経済的に潤っていたからなのかなーなどと穿った見方をしたくなりますね。お腹が脹れてるならけんかする必要ないのです。 18世紀半ばになるとグダニスクはロシアに占領されます。18世紀末の第二次ポーランド分割の際にグダニスクはプロイセン王国へ併合され、正式名称を「ダンツィヒ」と改めます。歴史的にダンツィヒの名前が初めて登場しました。 19世紀初頭フランスでナポレオン皇帝が権力を握り周辺各国への影響度を強める(=プロイセン王国の力が削がれる)と一時的に独立自治を取り戻したダンツィヒ(グダニスク)ですが、ナポレオン戦争終結によってあっさりプロイセン王国の支配下に引き戻されてしまいました。この頃からドイツは明確な支配権を行使するようになり、文化的同化政策を徹底するようになりました。 第一次世界大戦でドイツが敗北し、国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」として1世紀半ぶりに独立自治を取り戻したダンツィヒですが、住民はドイツ人、外交権はポーランド(戦勝国)というねじれがおきます。かつては起きなかった民族対立が起きてしまったのはダンツィヒの港湾都市としての衰退を象徴しているのではないでしょうか。 以後第二次世界大戦を経て20世紀半ばにポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒは旧名グダニスクに複名し、ポーランド領へ約160年ぶりに復帰することになります。 現在のグダニスクはポーランド有数の観光地で、且つ主要貿易港でもあり続けています。第一次世界大戦、第二次世界大戦で破壊された旧市街はポーランド市民の手によって精密に復元され、近々世界遺産に登録されるのではないかと言われるほど文化的価値が高く評価されています。 第三回 アルジェ Alger(仏) +... アルジェリア民主主義人民共和国の首都であり、同国最大の都市です。 アフリカ大陸北岸に位置し、地中海に面しており、要塞都市として長い歴史を持ちます。 紀元前1200年頃にフェニキア人が入植したのが起源とされ、ポエニ戦争(紀元前264~146)でローマ帝国領土となり、5世紀半ばにはゲルマン人に、次いで東ローマ帝国に支配され、その東ローマもアラブ人に放逐されるなど、常に周辺国家間の支配を受け続ける状態でした。 10世紀半ばに先住民族のベルベル人によって現在の市街地が整備され、以後500年にわたってヨーロッパ、アラブ、ベルベル人が支配権を握り合いました。 1510年にスペインがアルジェ沖の小島を支配すると、アルジェの支配者であったハイレディン兄弟がオスマン帝国に支援を求めスペインと対立する道を選びます。 アルジェを謙譲してオスマン海軍の総司令官職を得たハイレディンはその武力を背景に地中海での海賊行為を繰り返し、アルジェ沖は海賊海岸としてヨーロッパ各国から恐れられました。DOLでもウザイほどにNPCが沸いてますよね。あれはこういう歴史的背景を下敷きにしているものと思われます。 (なおハイレディンのその後はたぶんDOL的人物で誰かが詳しく解説してくれると思います。本稿はあくまでアルジェに焦点を当てていきますよ。) アルジェは交易上の拠点としての側面を持ちながらも19世紀初頭までの約300年間、変わらず海賊海岸としてその名を轟かせていました。 現代の海賊は船舶を襲撃し乗員を人質として身代金ビジネスなどで稼ぐそうですが、当時は密貿易と交易品強奪が主な活動内容だったそうですよ。 なににせよ困窮を非合法活動の旗印にする、セコイ上に非常に迷惑な行為であることは間違いありません。 さてアルジェです。1815年アメリカが海軍力を背景にアメリカ船籍への攻撃を中止する平和条約を求めるも拒否したことが転換期だったのでしょうか。翌16年にはイギリス・オランダ連合艦隊の艦砲射撃を受けアルジェ艦隊は壊滅的な打撃を受けます。そして1830年オスマン艦隊としてのアルジェはやりたい放題の300年の歴史に幕を閉じたのです。 同年フランスがアルジェへ上陸、その後アルジェリア全土を占領しました。1962年に再独立を果たすまで、アルジェを含むアルジェリア全土はフランスの植民地となりました。 現在の大理石の白さが眩しいアルジェの街並みはこの頃に完成したものです。 旧宗主国であるフランスとの結びつきは大変強く第二公用語はフランス語、輸入製品の大部分はフランスからのもので、出稼ぎ労働者や移民の先も圧倒的にフランスと言う状態です。 サッカーでもフランス代表になったアルジェリア系移民の選手は大勢いるようですよ。有名どころだとジネディーヌ・ジダン選手あたりでしょうか。 アルジェの話題からは大分ずれてしまいましたが、オチもなく終わりです。 第四回 ヤーデイン 現地語表記不明 +... DOLではヤーデインとして実装されている港は恐らくは現在ホーチミンと呼ばれるベトナム最大の都市のことだと思われます。DOLの港名はなぜその名前が採用されたのかよくわからないことが多いのです。不勉強といわれればそれまでですが、いつかネタにしようと思ってるアチンとかも意味不明だし… ともかく本稿ではヤーデイン=ホーチミンだと決め付けて紹介していきます。 閑話休題。 海運の発達によって港湾都市が力をつけるというのは何もヨーロッパ圏に限った話ではなく、今回のヤーデインもかつてはクメール人(カンボジア王国)の小さな漁村でした。その当時はプレイノコールと呼ばれていました。クメール語でプレイ=森、ノコール=都、町、土地と言う意味のようです。 1623年カンボジア王チェイ・チェッタ2世が内戦から逃がれてきたベトナム難民にプレイノコールにベトナム式の生活様式を維持した上での定住を許可すると、ベトナム系移民が爆発的に増えていきました。先住のクメール人が軒を貸して母屋を取られたようなものですね。カンボジアは当時タイと戦争状態で疲弊しており、ベトナム難民を受け入れられるような状況ではなかったのですが、勝手にやってくる難民を押しとどめる国力もなかったため、ある意味ベトナムによる文化侵略を受けたといえます。 1698年ベトナムはこの地域からカンボジアの影響力を排除するためグエン・フー・カインを統治者として送り込みました。彼は定住者の拡大を図り街としての体裁を整えていきます。 街の名前もベトナム風に変わり「Gia Định(ザーディン・嘉定)」と呼ばれるようになります。なおザーディンは街の名前ではなく城の名前(嘉定城=ザーディン城。フランスとの植民地戦争で消失)だという説もあります。 以後150年ほどベトナムの支配下にあったザーディンは19世紀半ばベトナムがフランスに敗れて支配権を割譲したことでフランス支配下となりました。1862年ザーディンを中心に現在のラオス、カンボジア地域も加えた仏領インドシナが誕生します。 宗主国となったフランスは正式名称ザーディンから、市民の間で一般的になっていたSài Gòn(サイゴン)という呼び名を採用し、街の名前を改名しました。 植民地となったサイゴンはフランスの影響のもとで植民地貿易の中心として急激に発展し、その美しさは「極東の真珠」とも「東洋のパリ」とも形容されるほどです(コロニアル文化=植民地文化)。今もなお当時の欧風建築物が残っていて大変美しい街並みだそうですよ。行ってみたいものです。 1939年ドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦の影響は東南アジア諸国にも及びベトナムも日本とフランスの二重統治下におかれて政情不安になっていました。本流であった王政復古と、その支配を良しとしない共産主義者との対立は冷戦下における列強の介入を招きますが本稿の趣旨からは外れますので割愛します。 対仏独立を目指した共産主義ベトミン(指導者ホー・チ・ミン)はディエンビエンフーの戦いでにフランスを破りました。これによってフランスはベトナム全土から撤退し、仏領インドシナは約90年の歴史に幕を下ろしました。サイゴンはベトナム王バオ・ダイ帝の政府に組み込まれその首都となります。同年ジュネーヴ協定によりベトナムが北ベトナム(ベトナム民主共和国・首都ハノイ)と南ベトナム(ベトナム共和国・首都サイゴン)に分断されました。 以後東西冷戦下で自由の砦を標榜し南ベトナム支援で泥沼にはまったアメリカと共産圏支援の北ベトナムとの間でベトナム戦争のどろどろとした歴史がありますが、これまた長いので本稿では触れません。 またまた閑話休題。 1975年ベトナム統一によりベトナム社会主義共和国が成立すると、サイゴンは周辺地域ザーディン省と統合され共産党指導者のホー・チ・ミンの名を冠したホーチミン市(ホーチミンシティ)となりました。ですが今でもサイゴンの名称はホーチミン市の市内でも店の看板などで見られるそうです。サイゴンといえば「お洒落な雰囲気」をイメージするそうですよ。なおベトナムの首都はハノイですが、経済の中心はホーチミンです。DOLに採用された理由は海に面した都市であるというのもありますが、経済都市であることも大きく影響しているのではないでしょうか。 以下うれさん宛て私信。 ベトナムといえば「水曜どうでしょう」最終旅(一応)の舞台です。北ベトナムの首都にして現在はベトナム社会主義共和国首都ハノイ、南ベトナム首都にして現在は経済の中心と言われるホーチミンをカブで旅する1800キロだったんですねぇ。こう聞くと少しは親近感沸いてくるんじゃないですか?w 10/10/08 第四回ヤーデインを追加。 10/08/09 アルジェをなぜかアルジェリアと書いていたのを修正。 以下余白だよっと。
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作者・◆VxAX.uhVsM氏 第三弾です 超自己満足!更新頻度はムラがあるそんなんですがお願いします。 11/04/29:完結しました。呼んでくださった方に感謝です。 DOLバトルロワイアル2nd本編 DOLバトルロワイアル2nd本編SS目次・時系列順 DOLバトルロワイアル2nd本編SS目次・投下順 DOLバトルロワイアル2nd追跡表 DOLバトルロワイアル2ndおまけ DOLバトルロワイアル2ndの死亡者リスト DOLバトルロワイアル2ndの参加者名簿 DOLバトルロワイアル2ndの参加者名簿(ネタバレ) DOLバトルロワイアル2ndの地図&ルール
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作者・◆VxAX.uhVsM氏 特別編です。 DOLロワをやり直します。 Re DOLバトルロワイアル本編 Re DOLバトルロワイアル本編SS目次 Re DOLバトルロワイアルの死亡者リスト Re DOLバトルロワイアルの参加者名簿 Re DOLバトルロワイアルの参加者名簿(ネタバレ) Re DOLバトルロワイアルのルール
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作者・◆VxAX.uhVsM氏 第五弾です。 いろいろカオスになると思いますが、宜しくお願いします。 2011/7/28 完結しました。読んでくださった方、感謝です! DOLバトルロワイアル3rdSS目次 DOLバトルロワイアル3rdSS追跡表 DOLバトルロワイアル3rd参加者名簿 DOLバトルロワイアル3rd参加者名簿(ネタバレ) DOLバトルロワイアル3rd支給品情報 DOLバトルロワイアル3rd死亡者リスト DOLバトルロワイアル3rdルール・マップ
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作者・◆VxAX.uhVsM氏 第六弾です。 これまでかつてないほどカオスになると思います。 1/19 リスタートしました DOLバトルロワイアル4thSS目次(未編集) DOLバトルロワイアル4th参加者名簿 DOLバトルロワイアル4th参加者名簿(ネタバレ) DOLバトルロワイアル4th死亡者リスト DOLバトルロワイアル4thルール・マップ
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●DOL(大航海時代Online)の歩き方 不定期で更新する、DOLの歩き方 実際の歴史や豆知識、ゲームの楽しみ方をご紹介いたします。 2010/10/21 第1回目は、当商会があります、セビリアの重鎮「タベラ枢機卿」について タベラ枢機卿にいて。 フアン・パルド・デ・タベラ Juan Pardo de Tavera セビリア王宮で爵位授与や投資受付をしている好々爺(?)ですが、 現実世界でも、エライ人でした。 1472年5月16日スペインのトロにて生まれ 、1545年8月1日トレドにて没 王室枢密院議長(カルロス1世)トレド大司教 枢機卿 ※枢機卿:カトリック教会で、教皇に次ぐ高位聖職者の称号。 トレドに聖サン・フアン・バウティスタ病院(タベラ病院)という慈善病院を設立しています。 1541年に建設を開始するも、1545年タベラ枢機卿の死去により一時中断します。その後、1559年に完成する。 現在は美術館となっており、エル・グレコが描いたタベラ枢機卿の肖像画や 有名な「キリストの洗礼」など数多くの美術品が収蔵されています。 こちらで、エル・グレゴが描いたと言われる肖像画や他の収蔵品の一部が見れます。 こちらのスペイン語については各自翻訳してください。 http //www.artehistoria.jcyl.es/genios/museos/gal135-1.htm タベラ病院についてはこちらから http //es.wikipedia.org/wiki/Hospital_de_Tavera ちょっと物足りないですが、今回はここまでです。 タベラ枢機卿に関して日本語の資料が殆どなく、スペイン語のサイトを 翻訳しながら、生い立ち等を追っている最中です。 新しいことが分かりましたら、またこちらで紹介したいと思います。 次回は、スペイン王国の起こりやジブラルタル海峡についてお話したいと思います。 名前 コメント
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* |Unclassified languages| 言語類型 現用言語 使用文字 type living language writing system ISO 639-3 【dol】 言語名別称 alternate names 方言名 dialect names 参考文献 references WEB ISO 639-3 Registration Authority - SIL International the LINGUIST List Ethnologue
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商会専用DOL辞書 みんなで自由に編纂していこう! ※ページ編集では、最後の行の「#table_zebra()」の記述を消さないでください 【ら行】 リス りす ポルトガルの本拠地・リスボンの事。非常に便の良い立地であるため多くのプレイヤーが集まる。バザーや商会ショップが非常に多く、リスでなら何でも手に入るという欲望の街。 リーベル王国 りーべるおうこく (ボレアス伝説時代のプレイヤー)かつてセビリアに存在した 廃人投資商会。商大栗+大型福船x4の艦隊を常時5艦隊以上 昼夜の別なく航海させて、巨額のゲームマネーを武器にマスリパタム、ナポリ他 イスパニア同盟港を維持すべく活動していた。ゲームマネーがその価値の全てであり、かつての ホリエモンも顔負け。貧乏プレイヤーは一顧だにしないという いやな奴ら。セビリアにおいてですら 彼らのことを語るのは 禁忌とされ アンタッチャブル扱いw。パスワードを盗まれたらしく あえなくキャラデリ そして王国消滅となった。ネデのヨロズヤとの壮絶な投資合戦は 長く語り継がれた伝説である。現在のATS鯖においての イング メラ艦隊のような存在の敵役である レア れあ Rare 希少な、珍しいを意味する英語。レア艦隊、レア収奪、レア物なんて感じでつかわれます。 六郎 ろくろう 2013年9月21日 航海者の館のHPにて DOL休止宣言をした。イスパニアの名物キャラであり航海者の館の会長を長きにわたりつとめてきた。ネデ人にとっては 邪魔な存在が消えたとともいえ、衰退イスパニアを象徴する出来事である。リスボンでひたすら商会員募集の看板だしていてよもやと思っていたら... ロット ろっと クジの事。NPCの道具屋や工房、造船所で買い物をすると貰えるNo.ロット、イベントなどでお金を払って買う(形式上は投資とその御礼)ロットなどがある。No.ロットは、一回にいくらの買い物で貰えるかや、何が当たるかが地域によって異なる。お金で買うタイプのロットは、払った額相応のモノが当たるが、額に見合わないゴミクズアイテムを引く事もある。ま、クジだし。 ロンスク ろんすく ロングスクーナーの略。登場以来 快速船としての人気は高い。逆風をもろともしない一方、横風、突風に脆く「耐風マスト」スキルは必須かもしれません。帆性能と旋回、対波のバランスが難しく船大工の腕が問われる難しい船。 ロンドン ろんどん イングランドの本拠地・ロンドンの事。リスボンやセビリアなどはロンドン同様に4文字なのに省略されるのに対し、ロンドンが省略されないのは、「ロン」と呼ぶのがあまりにカッコ悪いからであろう。あるいは、麻雀を想起するからかも知れない。
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DoL DeckEditor 1.08.0 DoLのデッキ作成・編集、デッキリストの書き出しを行うツールです。 自己責任でご利用下さい。詳しくはReadMe.txtを読んで下さい。 【SAVE】ボタンを押すとセーブファイルを書き換えるので必ずバックアップを取って使用してください。 最新版の修正点 ver 1.08.0 仕様変更 DoLの仕様変更によるセーブデータ形式変更に対応 1.81以前のセーブデータを直接読み込むと正常に読み込めないので注意してください ダウンロード 本体(フルパッケージ):DoL DeckEditor1.08.0 必要なファイルがすべて入ってます。 本体1.08.0 カードリスト 1.81版 差分: 1.81 対応版カードリスト 本体同梱のlist.xmlに上書きしてください デッキエディタ作ってみましたにおいてDoL DeckEditor用のリスト更新ツールがDLできます またデュエル・オブ・レジェンド 関連サイト デッキの秤(はかり)にて上記ツールおよび 操作の自動化ツールを含むDoL DeckEditors統合PackがDLできます。 リストのアップデートにはそちらをご利用ください ※1.81は修正版をアップしてあります 1.08.0本体(+ReadMe) 過去バージョンに上書きしてください DLL:MFC71.dll DLLの不足で起動できない旨のエラーメッセージが出る方はこちらからDLLを入手してください. 解凍すると3つファイルがでてくると思いますが全部 c \windows\system32(2kの場合はc \winnt\system32)へコピーしてください. インストール 解凍して出来たフォルダをDuel of Legendのフォルダ内 (FileやHTMLのある場所)に保存します. インストールが正しく行えていれば構成は以下のようになると思います. Duel of Legend ├ File | ├ … | └ … ├ HTML | ├ … | └ … ├ DuelOfLegend.exe ├ ReadMe.txt ├ Manual.html └ DoL DeckEditor ├ DoL DeckEditor.exe (本体) ├ ReadMe.txt ├ deckmaker.htm ├ list.xml ├ bar1.png └ bar2.png 使い方 DoL DeckEditor.exeを起動します. 左上に並んでるボタンの内、文字が薄くなっているものが現在のモードです. モードを切り替えたい時は目的のモードのボタンをおして下さい. ・書出 デッキのリストを出力する機能です. 出力したいフォーマット(1シンプル,2wiki用,3コードのみ)と, one(選択)かall(全て)にチェックを入れてOKをおして下さい. ・消去 チェックのついているデッキの内容をクリアします.OKを押した後, 実際にセーブデータに反映させるにはセーブを押します. ・作成 チェックのついている場所にMAID Codeからデッキを作成します. (事前に作成デッキのクリアを行います.)OKを押した後、 実際にセーブデータに反映させるにはセーブを押します. ・複製 左側のチェックがついてるデッキの内容を右側のチェックがついてる場所へ コピーします.(事前にコピー先のデッキのクリアを行います.) OKを押した後、実際にセーブデータに反映させるにはセーブを押します. ・入替 二つのデッキの場所を入れ替えます.デッキの整頓に利用して下さい. OKを押した後、実際にセーブデータに反映させるにはセーブを押します. ・編集 編集をクリックすると現在選択中のデッキが入力された状態で deckmaker.htmが開きます(IEで開きます) クリーチャー、マジックの横のチェックボックスにチェックをいれると カードリスト内に条件にマッチするカードが出力されますので カードリスト内のカードデータを適当にクリックしてみてください. カードリスト内でクリックするとデッキへカードを追加し, デッキ内でクリックするとデッキからカードを抜きます. また,どちらも右クリックで直接デッキ投入枚数を選択できます. デッキが完成したらMAIDcodeをコピーして本体の作成を 利用することで実際にデッキを使用できるように出来ます. ※画像の表示をデフォルトでオフにしたい場合, 下から5行目の一番最後のCheckedを消して下さい. ・自動バックアップ DuelOfLegnend\FileにBackUpフォルダがあると, 起動時に自動でバックアップを行います. この機能を利用をしたい場合は手動でフォルダを作成して下さい. 生成されるファイル名には,年月日時分が付加されます. 延々増え続けるので適当に旧いファイルを削除してください. その他 本体および編集モードで立ち上がるhtmlファイルでは、カードの情報を list.xmlから読み込んでいます。 DoLのバージョンアップがあった場合、このlist.xmlを新しい物に 上書きすることで最新のカードデータを利用できます。 また、MAIDCodeさえ正しく出力できればDeckEditor本体で デッキ作成が可能ですので、同梱のhtmlファイルを元にしたり、 あるいは0からより使いやすいものを作成すると便利だと思います。 MAIDCodeはBASE64とは違うのね、、、。-- 名無しさん (2006-07-06 22 25 18) XPなんですが使用できませんorzセーブデータが読み込めないと出るんですが、使い方がダメなんでしょうか? -- 名無しさん (2006-07-10 08 41 29) 解凍した際に不要にフォルダを作成してしまって、セーブファイルを読み込めないのでは? -- 無名 (2006-07-10 13 07 04) 使い方じゃなくて恐らく上の方の書いてる理由でインストール場所が間違ってます。 インストール の項を参考に確認してみて下さい -- APR (2006-07-10 20 51 30) list.xmlの既知の一覧です。後で修正が完了し物をアップしてもらいます。クリーチャーNo.22 紫の魔獣の種族が魔獣になっているNo.24 土蜘蛛の種族が魔獣になっているNo.100 創造神ブラフマーの属性が古代になっているNo.181 トレントの特殊能力がえらいこっちゃNo.203 暗黒の傀儡のDPが高いNo.232 ペガサスのAPが高いNo.323 エティンの名前がエディンになっているNo.364 三頭の赤き龍の種族が龍になっているNo.372 天界の霊鳥の特殊能力が抜けている魔法No.281 魔人の施しの属性が単発魔法になっているNo.411 魔力吸収の属性が魔力吸収になっているその他CP0が検索できないため、全てを指定しても偽りの魔法、封印空間が出てこない -- APR (2006-07-15 20 10 33) えっと、listのミスで私が気付いたなかで上に無いのを書き出しますね。全てクリーチャーですNo.035 ガルーダのAPが低くなっているNo.183 ダークメイドのDPが低くなっているNo.244 デッドロー「パ」ーの名前がデッドロー「バ」ーになっているNo.346 L・ロボットのCPが高くなっているNo.353 G・ガーディアンのAPが高くなっているNo.363 ツインサーペントの特殊能力に「No359と合体可能」が抜けているNo.380 「深」緑の守護天女が「新」緑の守護天女になっているNo.397 邪者ロキのDPが低くなっているNo.398 豊穣神ヴェーのDPが低くなっているテキストの言い回しなどのほんとに細かい部分は割愛で^^;とりあえず、私が気付いたのはこのくらいでしょうかね。 -- 名無しさん (2006-07-15 21 52 55) list.xmlの差分をアップしました。上記のは全て修正できてるかと思います。 -- APR (2006-07-15 23 52 04) DeckMaker ver1.2 をベースにカードをランダムに追加する機能を追加してみました。deckmaker_1.2append.zip に入っています。-- 名無しさん (2006-08-03 21 34 14) list.xmlの1.44対応版をアップロードしました。list1_44.zipです。 -- APR (2006-08-06 02 38 34) list.xmlの1.45対応版(list1_45.zip)のアップロードとdeckmaker.htmのバージョンアップ(deckmaker1_3.zip)を行いました -- APR (2006-08-08 07 31 31) いつも便利に使わせて戴いています。DoLDeckEditorとDoLDeckRepoterを両方使っている人から、RepoterでMAID-codeを利用できる様にして欲しいと言う要望がありました。幸いEditerのreadmeでは詳細な情報を公開されているのでエンコードやデコードはこちらでも簡単にできそうです。RepoterにMAID-codeのエンコードやデコード機能を付けて、デッキの情報を共有できる様にしたいのですが、ご許可願えませんでしょうか。 -- ママチャリ (2006-08-27 02 17 43) 問題ないですよー。というか何で対応してないんだろうと思ってたら私そのあたりのこと書いちゃいないですね…。deckmaker.htmのjavascriptは、MAIDCode関連の関数だけコピーして再利用しやすいように書いたつもりですので参考になるかもしれません。 -- APR (2006-08-28 01 02 25) ありがとうございます。 MAIDCode関連の関数だけコピーして再利用しやすいように書いたfunction maid(deck)のあたりですね。それにしてもキレイなスクリプトですね。ちゃんと勉強している人は違うなー。私はいつでも自己流なので、こういう書き方はできません。実はjavascriptって、よくわからない上に私はベタな文字列操作くらいしかできない事も、MAIDCodeの利用を躊躇っていた理由の一つなんですが、450種×3通り=1350通りのペアしかないので、表計算ソフト上でそれぞれの桁を羅列して、後から2桁にくっつける原始的なやり方で、コード変換表を作り、スクリプトの外に置いて参照しています。(レベル低っ!)恥・・。 -- ママチャリ (2006-08-28 02 39 50) 本家掲示板にもありましたが画像の表示のせいでメイドコード作成に時間がかかってしまう私のポンコツパソコンのために画像表示有り無しを選択できるようにしていただけないでしょうか。 -- 名無しさん (2006-08-31 01 21 52) deckmaker1.3の画像非表示版をアップロードしました。deckmaker1_31(noimage).zipです。デフォルトで画像非表示になっています。 -- APR (2006-08-31 02 23 38) 早い対応に感謝します。お疲れ様です。 -- 名無しさん (2006-08-31 02 39 57) MAIDCodeでデッキ作成→カードが足りない事に気づく→カードを買いデッキに足す→エディターでデッキを消去する→買ったカードが消えている -- バグ報告 (2006-08-31 08 45 02) それって、エディタの”カードを買い足す前のデータ”を使ったからでは? -- 名無しさん (2006-08-31 22 26 05) デッキに入れた450 メギドの丘2枚がEditor上では入ってないものとされました確認お願いします -- 名無しさん (2006-11-26 13 31 56) 現象を確認できました。セーブデータからデッキデータを読み込む際No450未満のもののみ有効にしてた為の不具合ですので該当箇所を修正しました。数日でほとんどのファイルが新しくなってるので差分ではなくフルパッケージの形で更新しました。 -- APR (2006-11-26 14 50 14) 1.07.beta1の報告です。deckmakerのウィンドウサイズが横に4~8ピクセル程度小さいため、1.06と比べて画面の体裁が崩れているように感じました。(XP、Windows XPテーマ、標準のフォントサイズで確認) -- 名無しさん (2007-02-17 02 08 11) 報告ありがとうございます。スクロールバーのサイズが11と小さい私の環境でぎりぎりの幅に設定したことが原因ですのでかなりの環境で再現すると思いますorz報告された方は既にお気づきかもしれませんが、とりあえずウィンドウ幅を広げることで今までどおりつかえます。可能ならスクロールバーサイズを取得して幅を調整するようにします。 -- APR (2007-02-17 10 37 54) スクロールバーサイズ取得するの面倒だったので普通に幅に余裕を持たせるだけにしました。極端にスクロールバーが小さいと逆に余白が気になるかもしれませんが他の要因でクライアント領域が多少違っても大丈夫だと思います。 -- APR (2007-02-17 13 01 44) 修正を確認しました。ありがとうございます。 -- 1.07.beta1報告者 (2007-02-18 10 02 39) 1.06フルパッケージの圧縮データが破損しているようです。再アップロードよろしくお願いします。 -- 1.06報告者 (2007-02-28 17 12 26) Lhaplus, WinRarで解凍してみましたが問題なく解凍できました。キャッシュを削除してDLし直してみて下さい。 -- APR (2007-03-02 23 27 07) DoL DeckEditor1_07_0(full).zipを解凍して実行すると「DLLが見つかりません」というエラー表示のウインドウがポップアップして起動できませんでした。「MFC71.DLL」が無いと言う事です。付け忘れ? ReadMe.txtには何も書いて有りませんでしたが、Windowsに元々付いている物が、うちの環境だけ無いんでしょうか(Win2K SE4です)? VC++か何かのモジュール? -- ママチャリ (2007-03-07 19 18 12) うっかりしてましたorzMFC71.dllはVC++.net 2003でMFC使って作成したソフトに必要なDLLです。1.06.0まではGUI部分でWindowsのAPIを直接叩いてたんですが機能の都合で1.07.beta1からMFCで書き直したんです。Windowsにもともとついてるものじゃないですが共通ライブラリなのでbeta版試した方は既に入ってる方が多かったのでしょう。http //win6.jp/misc/mfc71.zipをc \windows\system32にコピーしてください。(Deck Editorと同じフォルダに入れても多分動きますが前述の通り共通ライブラリなので他のソフトで使うことがありえます。) -- APR (2007-03-07 20 38 58) c \windows\system322Kだとc \winnt\system32ですね。 -- APR (2007-03-07 20 53 11)
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DOL的人物 ┣あ行〜な行(別ページリンク) ┃ ┣あ行(ヴェサリウス) ┃ ┣か行(カーンサウフ New!,ギーズ公爵,コンデ公爵) ┃ ┣さ行(サンタ・クルズ侯爵,楽士ジェズアルド,ジャーノ・フレゴーゾ,シャイロック頭取) ┃ ┣た行(タベラ枢機卿,鄭成功 New!,ドゥアルテ・ロペス) ┃ ┗な行 ┣は行〜ん(このページ) ┃ ┣は行(ブラガンサ公爵,国王フェデリーコ,ベリー女公ジャンヌ) ┃ ┣ま行(マリア王妃,王女マルグリット,技師マルティネンゴ,ムライ・ハサン New!, ┃ ┃ モチェニーゴ官房長官,モンモランシー大元帥) ┃ ┣や行 ┃ ┣ら行(ルイス・デ・レオン) ┃ ┗わ行・ん ┃ ┣DOL的年表(別ページリンク) ┗DOL的港(別ページリンク) あ(別ページリンク) ↑ か(別ページリンク) ↑ さ(別ページリンク) ↑ た(別ページリンク) ↑ な(別ページリンク) ↑ は ブラガンサ公爵 (リスボン王宮) +... ブラガンサ公爵ジョアン2世(ポルトガル国王ジョアン4世)João II de Bragança (João IV de Portugal) 1604〜1656 一口に「ブラガンサ公爵」と言っても歴代何人もいらっしゃいますが,大航海時代の中でもっとも有名なブラガンサ君と言えば,たぶんこの人,ジョアン2世(ポルトガル国王としてはジョアン4世)でしょう。ブラガンサ公爵家は代々ポルトガルの名家でしたが,もともとポルトガルは貴族間の勢力争いが多く王家の力が相対的に弱かったため,そこをイスパニアにつけ込まれ,王位継承のどさくさにまぎれて1580年に一旦イスパニアに併合されてしまいます。ただし,時のイスパニア国王フェリペ2世はイスパニア派や日和見派の多かったポルトガル議会を尊重(温存?)したため,一種の自治州(属国)のような形態で「ポルトガルという政体」はかろうじて存続します(なので,このような期間でもインドやアジアでは相変わらず,イスパニアとポルトガルが覇権争いを繰り広げることができたわけです)。転機は1640年,フェリペ3世4世と国王がかわってイスパニアの圧政に耐えかねた一部貴族たちが当時のブラガンサ公爵ジョアン2世を担ぎだし,クーデタに成功,イスパニアからの正式な「独立」を議会に認めさせます。これによりブラガンサ公爵ジョアン2世は,ポルトガル国王ジョアン4世と名乗り,このブラガンサ王朝はその後なんと1910年まで続くのです! 【余談】DOLのNPCとしては,2009年のLiveイベント「王女様のティーパーティ」で,「ブラガンサ王女」というNPCが登場しました。この王女様はおそらく国王ジョアン4世のご息女で,後にイングランド王チャールズ2世に嫁がれたカタリーナ・デ・ブラガンサCatarina de Bragança 様ではないかと思われます。^^ 国王フェデリーコ (ナポリ国王執務室) +... フェデリーコ1世 Federico I di Napoli 1452~1504 ナポリは今でこそイタリアの一部ですが,19世紀末のイタリア統一以前までは,イタリア半島のほぼ南半分を占めるイタリア随一の大国でした。・・・と言っても,その実態は外国による支配がその歴史の殆どを占め,列強の草狩り場となっていたという方が事実に近そうです。真にナポリが「独立」を保っていたのは,いったいいつのころだったのか・・・。 フェデリーコ1世もそういう点では,ナポリ市民にとっては外国人の王です。フェデリーコはイスパニアの王家トマスタマラ家の出で,時のアラゴン王フェルナンド2世とはいとこの関係でした。もともとフェデリーコの5代前にフランス人の王(ヴァロア=アンジュー家)から政権を奪取しているので,イタリアにおけるイスパニア勢力の傀儡の最たるものと言っても過言ではありません。しかし,フェデリーコはその母国に裏切られます。1501年,アラゴン王フェルナンド2世とフランス王ルイ12世の密約により,軍事的・政治的後ろ盾を失ったフェデリーコ1世は自ら身を引かざるを得ず退位,その3年後には亡命先のフランスで死去します。 ナポリの小さな小さな国王執務室にいらっしゃるフェデリーコさんは,どことなく弱気で陰気で物悲しそうな雰囲気を帯びています。おそらくこれからおこるであろう我が身の運命を予感していらっしゃるのではないでしょうか・・・。;_; なお,フェデリーコ1世の退位(廃位)を受けて,ナポリは一時フランス側に組み込まれますが,1503年には再びイスパニア軍がナポリを占領,1504年以降はアラゴン王フェルナンド2世自らがナポリ王を兼ね(ナポリ王としてはフェルディナンド4世),再びイスパニアがナポリを支配します。このように猫の目のように変わるシーソーゲームを展開しながら,ナポリは(いやイタリア全土が)フランスとイスパニアの横暴による泥沼のイタリア戦争(1521〜1544)に引きずり込まれていくのでした・・・。 ベリー女公ジャンヌ(カレー,ベリー女公ジャンヌ邸) +... ジャンヌ・ド・フランス Jeanne de France, Duchesse de Berry 1464〜1505 ベリー女公(女公爵,公爵夫人)という称号をお持ちですが,父君をフランス王ルイ11世,弟君にシャルル8世,そして夫君をルイ12世に持つれっきとした王族中の王族です。では,なぜ王妃から女公に「格下げ」になっちゃったかというと,この可哀想なジャンヌさんはルイ12世に離縁されちゃったからなのです。カソリックなのに離婚できるのかって・・・? できるのです。「白い結婚」であれば。つまり,子を成す能力がないと判断され,ローマ教皇の認可があれば教会法の元でも離婚が認められるのです。可哀想なジャンヌさんはもともと父王ルイ11世が独断的に決めた政略結婚でオルレアン公ルイ・ド・ヴァロワ(後にルイ12世として即位)の元に嫁がされたのですが,父王の死後,今度は自分の夫である新王ルイ12世の政略から離婚を突きつけられます。ベリー女公という身分は,この離婚の手切れ金のような形でルイ12世から贈られたものでした・・・。幼少から病弱で美貌にも恵まれなかったらしく,まさしく薄幸の姫君の典型例。可哀想〜。>< なお,ジャンヌさんはこの後尼僧になってひっそりと余生を送りますが,ただ泣きくれて隠遁生活をしていたわけではありません。もともと信仰に篤かったジャンヌさんは,「受胎告知修道会」という女子修道会を創設し,死後はその功績を認められ,なんと列聖されます。よかったね。いいことあったね。^^ ちなみに,佐藤賢一氏の「王妃の離婚」という小説はこのジャンヌ王妃の離婚を巡る顛末を題材にしていますが,この小説の中では,ジャンヌさんは決して美しくはないけれども毅然とした貴婦人として,お相手のルイ12世は超ダメダメのサイテー男として描かれてます。^^ 【余談】ベリー公爵領は,現在のフランス中央部ベリー県にほぼ相当し,主な都市はブリュージュです。DOLでは内陸都市はありませんので,ジャンヌさんはやむなくカレーにご出張になっておられるのではないかと思われます。ハイ。^^ ↑ ま マリア王妃 (アントワープ,マリア王妃邸) +... マリア・フォン・ハプスブルグ Maria von Habsburg 1505〜1558 15世紀後半から17世紀前半のいわゆる大航海時代において「マリア」という名を持つ王妃様は数多く登場しますが,(1) アントワープ(もう少し広く考えてフランドル地方)に住んでること,(2) ダ・ヴィンチと生年が重なってること(ダ・ヴィンチに関係するクエで彼女がキイパーソンになっています)の2点から,ほぼ彼女で間違いないと思います。 マリアさんはお父様がハプスブルク家のフィリップ美公,お母様がカスティーリャ女王フアナであり,さらにお兄様がイスパニア王カルロス1世と神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世,という超々セレブな家系です。さらにご自身もハンガリー=ボヘミア王ラヨシュ2世に嫁ぎ,文字通り王妃様となりました。なんというゴーヂャスなお家・・・。>< ちなみにハプスブルグ家の家訓は「戦は他家に任すがよい。幸いなるオーストリアよ,汝は結婚せよ」ですので,積極的な婚姻政策により他国への支配権を伸張するのが常套手段で,マリアさんもの婚姻もその一環だったようです(そして後のオーストリア=ハンガリー2重帝国の基礎が築かれていくのでした・・・)。 とはいえ,マリアさんも親や兄たちの七光りで有名なだけではありませんし,単なる政略結婚の手駒のお人形さんでもありません。彼女は夫の死後,カルロス1世に請われてハプスブルグ領ネーデルラントの総督になり,名目上ではなく実質的に執政を行っただけでなく,ネーデルラント貴族の立場も配慮して実兄のカルロス1世に物申したりと,独立前の火薬庫のようなネーデルラント統治をバランス感覚よく舵取りした有能な政治家でもあったのでした。カコイイ。^^ 王女マルグリット (ナント,王女マルグリット邸) +... マルグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois, “La Reine Margot” 1553〜1615 「王女マルグリット」って,どこの誰〜?って思う方も多いかと思いますが,「王妃マルゴ」と言えば「ああなるほど」と掌を打つ方も結構おられるのではないかと思います。そう,アレクサンドル・デュマの小説『王妃マルゴ』のモデルとなった王妃様と同一人物です。こういうところにビミョーな形で有名人を隠しているところがKOEIさんのニクいところ(笑)。 マルグリットさんはフランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれ,フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世と三人の王を兄に持つので,その流れから言うと立派な「王女」さまということになります。同時に,ナバーラ王アンリ・ド・ブルボン(後のフランス王アンリ4世)に嫁がれたので,その視点から言うと「王妃」でもあります。王族の家系って,ややこしい〜。>< デュマの小説あるいはそれをベースにした同名の映画などでは,王妃マルゴはサロメさながらのファム・ファタル(男を破滅に導く運命の女)として描かれていますが,実際にその通りだったかはともかく,波瀾万丈な運命に揉まれながらもしたたかに時代を生き抜き,文学や芸術に造詣が深く愛人や寵臣も多く抱える強い女性であったことは事実のようです。まず,ユグノー戦争中最大の惨事とも言えるサン・バルテルミーの虐殺は,彼女とアンリ4世(当時はまだナバーラ王)の結婚式の最中に起こった虐殺事件で,その時点で彼女は19歳。フツーだったらそこから悲惨な人生まっしぐらです。さらに夫の即位でせっかくフランス王妃になったのも束の間,夫アンリとはもともと政略結婚で疎遠だったため,子供ができなかったことを理由に離婚させられてしまいます。しかしここで悲しみに打ちひしがれたり修道院に籠っちゃったりしないのがマルグリットさん。何人もの愛人を抱え優雅な晩年を送ったただけでなく,なんと夫の再婚相手マリ・ド・メディシスともホントに仲良く交際したりしてます。強いというか,超越してるというか・・・。DOLにおいても彼女の前で毎晩多くの脳筋さんたちがひざまづいているのがわかる気がしますね。^^ 技師マルティネンゴ (アテネ,マルティネンゴ邸) +... ガブリエル・タディーノ・ダ・マルティネンゴ Gabriel Tadino da Martinengo 1480頃〜1544 この方はある意味,ヨーロッパではなく日本において有名かもです。DOLに登場するから・・・ではありません。>< 塩野七生大先生の『ロードス島攻防記』という小説に登場したからです。もちろん,実在の人物がモデルです。(というわけで,以下は殆ど同小説からの情報。^^;) マルティネンゴとは正確には彼の出身地の名前で,そういう点では「ダ・ヴィンチ」さんと似たような呼ばれ方です。DOLでは「技師」と肩書きがついているように,元々ヴェネツィア共和国陸軍の技術将校をしていたそうです。専門は城塞築城。DOLがらみで言うと,カンディアの要塞の設計も彼がたずさわったようです。折しも1522年にオスマン・トルコが聖ヨハネ騎士団領だったロードス島を攻略するのですが,その直前から彼はロードス島に潜入します。彼の腕を買ったリラダン騎士団長(同じくアテネのNPCです)に口説き落とされてヴェネツィア軍を脱走してきたらしいですが,これは公にトルコとの関係を悪化させたくないヴェネツィア政府が民間人扱いで送り込んだのではないかとの噂もあります。ロードス島はマルティネンゴ君が補強した要塞のおかげで数万にもおよぶオスマン軍の大攻勢にも半年以上耐えますが,最後は陥落し,リラダン騎士団長,ラ・ヴァレッテ(後のマルタ騎士団長,アテネNPC)と共に捕虜になった後,解放されます。ロードス島攻防戦の後,その功績を評価され騎士に叙勲されますが(当時の聖ヨハネ騎士団は貴族階級でなければ騎士になれなかったため,これは異例中の異例),どういう理由か騎士団の新しい本拠地であるマルタ島の築城には参加せず,今度はイスパニアのカルロス1世に請われてアントワープの都市防衛計画などにも参加したようです。まさに遍歴の職人技師!ってカンジ・・・? ちなみにマルティネンゴ君が造った城塞は現在でも残っており,例えば下記のサイトなどで写真を見ることができます。(本文はスペイン語ですが,とりあえず「Martinengo」と文書内検索して,あとは写真をお楽しみ下さい。^^) http //personal.redestb.es/rafaher/recinto.htm ムライ・ハサン (チュニス大守執務室) New! +... ムーライ・ハッサン(ムハマンド6世)Mulai-Hassan “Muhammad V” (??-1543?) まりなりょ商会(Marinaro商会支店・チュニス8番館)のはす向かいにお住まいなので我々にとってはお馴染みの無頼破産さん。w この方のご略歴もWikipedea先生やgoogleさんではなかなか教えて頂けず,探すのにひじょーーに苦労しました。つまり,歴史に「人物」として名を残す主役級ではなく,残念ながら「事件」の渦に飲み込まれて行っちゃった脇役級なのネ・・・。>< とはいえ,調べてみると,この方も歴史上非常に重要な「事件」の生き証人です。この時代,なにしろ「大航海時代」というくらいですからやれ大西洋だ太平洋だと外洋に目を向けがちですが,実は同時進行で当時の超大国イスパニア(=ハプスブルグ家)と新興国家オスマン・トルコが地中海および東欧(内陸)の覇権争いにしのぎを削っていた時代でもあったのです。イスパ勢対オスマンの攻防としては,第1次ウィーン包囲網(1526〜29),プレフェザの海戦(1538),レパントの海戦(1571)などが超有名ですが,実はその影に隠れてなぜか教科書ではさっぱり注目されないチュニスの攻防も,実は見逃せません。 さて,我らが無頼破産さん,もといムライ・ハサンさん。「大守執務室」なんてところにいるので,地方長官みたいな小役人みたいに思われちゃうかも知れませんが,立派なハフス朝のスルタンです。正確には,「でした」ですが・・・。><; 12世紀に興り一時は隆盛を極めたハフス朝も16世紀には衰退の一途を辿り,新興国家オスマン・トルコに押されっぱなしになります。1534年に事実上のオスマン海軍と言ってもよいバルバリア海賊の頭目バルバロッサ=ハイレディン (DOLでは,ポル・イスパの国イベントに登場するNPCです) に街を占拠され敢えなく逃亡。その後ムライ・ハサンさんは元スルタンの身にもかかわらず,なんとキリスト教国であるイスパニアのカルロス1世に庇護を求め, 海の傭兵隊長アンドレア・ドーリア (DOLではリグリア海NPC) 率いるイスパ海軍にハイレディンを追い払ってもらいます。こうしてキリスト教国の属国となりつつも自分の地位を確保するなんともトホホなムライ・ハサンさんでしたが,彼の死後,チュニスは結局1574年にオスマンに再奪回され地中海におけるイスラム勢力の拠点となっていくのでした・・・。やっぱりその名の通り,無頼破産さん・・・。><(アイタタ・・・ モチェニーゴ官房長官 (ヴェネツィア元首公邸) +... アルヴィーゼ・モチェニーゴ Alvise Mocenigo 1507–1577 モチェニーゴ家はヴェネツィアの名門貴族ですが,大航海時代に活躍した人としては,この人,アルヴィーゼ・モチェニーゴさんしかいないでしょう,たぶん。ちなみに,ヴェネツィア共和国において官房長官(Gran Cancelliere)という役職は貴族がなるものではなく,平民による官僚機構のトップですので,モチェニーゴ家から官房長官を輩出することはあり得ないハズですが,このへんはDOL的にはどういう設定なんでしょう・・・?^^; アルヴィーゼ・モチェニーゴは1570年から77年にかけて元首(ドージェ)の地位にあり,当時ヴェネツィア最大の危機と言ってもよい外交問題の難局を乗り切りました。それは,1571年に起きたレパントの海戦と,その戦後処理です。そもそもレパントの海戦は1570年にオスマン・トルコがヴェネツィアの最前線基地であったキプロス島を占領したことに始まります。レパントの海戦はその報復あるいは奪還のための海戦であったはずなのですが,キリスト教連合軍(イスパニア,ローマ教皇,ヴェネツィアなど)の足並みの乱れから,せっかく海戦に大勝利したにもかかわらず次の一手が出せず,ヴェネツィアは海戦の2年後にキプロス島をオスマンに割譲するという屈辱的な単独講和を結ぶに至ります。その決断を下したのが,モチェニーゴさん。むーん。現実主義者の苦渋の選択ですが,このあたりからヴェネツィアの斜陽の始まり・・・? 【余談】ヴェネ人のキャラを持つ方なら「アルヴィーゼ」と聞けば,国イベントで登場するあの高慢ちきなアルヴィーゼ君を思い出すかと思います。アルヴィーゼ・オルセオロなる人物はおそらく架空の人物かと思われますが,オルセオロ家は実在のヴェネツィア名門貴族で,西暦900年代後半〜1000年代前半にかけてドージェを輩出したりしてます。・・・って,全然時代が違うじゃーん。w モンモランシー大元帥 (マルセイユ離宮) +... モンモランシー公アンヌ1世 Anne I de Montmorency 1492〜1567 モンモランシー公爵家で「元帥」を拝命している人は複数おりますが, 元帥の他に宮内庁長官や貴族院議員などの政府要職を歴任にしているという点で,モンモランシー「大」元帥と言えば,この方,モンモランシー公アンヌをおいてほかはないでしょう。 アンヌさん(ってなんだ可愛らしい女性の名前みたいですね。肖像画を見ると超コワもてのオッサンですが。><)は当時有力貴族がカトリック派とプロテスタント派に二分されていたフランスにおいてカトリック派に属し,一時は摂政カトリーヌ・ド・メディシスの政権にも入りますが,彼女がプロテスタント宥和政策に舵を切ると,カトリック派の盟主ギーズ公フランソワと共にカトリック軍司令官としてプロテスタントを圧迫します。1562年にユグノー戦争が勃発すると,その緒戦でモンンモランシー公アンヌはプロテスタント側の捕虜に,コンデ公ルイはカトリック側の捕虜に,ギーズ公フランソワは落命,とマルセイユ離宮のNPC 3人組の運命はぐちゃぐちゃに絡まって奈落の底に落ちながら,泥沼の内戦に発展してくのでした・・・。 【余談】ちなみに「元帥」という日本語に対しては “Maréchal de France”と“Connétable de France” の2つのフランス語が存在します。前者は勲章であり役職名ではありません。DOLにも「マレシャル」という称号がありますね〜。アレです,アレ。^^ 後者の方は,フランス革命まで使われていた役職名で大臣職に相当し強力な権限を持っていたようです。アンヌさんは両方の肩書きを持ってます。さすが,大元帥さま。しかしアンヌさんがいた時代に,実際に「大元帥」(Grand Maréchal? Grand Connétable?)なる役職または称号があったかは・・・,いろいろ調べてみましたが不明です。orz ↑ や ↑ ら ルイス・デ・レオン (バルセロナ,ルイス・デ・レオン邸) +... フライ・ルイス・ポンセ・デ・レオン Fray Luis Ponce de León 1527〜1591 ルイス・デ・レオンはイスパニア黄金時代を代表する詩人であり人文学者であり神秘主義者です。そしてアウグスティノ修道会にしてサマランカ大学教授。イベリア半島最古の大学として知られる名門サマランカ大学で教鞭を取っていた彼は,ある日講義中に突然逮捕されます。容疑は,旧約聖書の詩編をスペイン語に訳したから。当時宗教裁判の嵐が吹き荒れるイスパニアにあって,これは大変異端的かつ挑発的な行為でした。それでも,詩人としての性か,修道士としての良心からか,意に介せず講義を続け,そして逮捕されます。逮捕後も己の姿勢を曲げることなく,幸いにして拷問も処刑も受けることなくその数年後には釈放され,再び大学にもどり講義を続けたそうです。最初の一声は「昨日お話ししましたように・・・。」まさに反骨と信念の学者魂・・・スバラシイ。 ちなみに,彼の作品や評伝は殆ど日本語になっておらず,現在日本語で入手可能な書物としては,かろうじてサマセット・モームの紀行文的エッセイ『ドン・フェルナンドの酒場で』(原書房)の中でその片鱗を伺えるのみかと思われます。以下,同書からの引用。 彼は神秘主義思想家とみなされる。しかし,神秘主義の道を求める人々に取って慰めとなるような,超自然的な祝福を経験したことは一度もなかった。また,神秘主義思想家の特徴である,現世のものごとからの超然とした離脱も,経験したことがなかった。安定しない自分の性質のために楽しむことができない恍惚の状態を欲し,苦しみながらそれを求めた。・・・(中略)・・・私(=モーム)はいつも考えるのだが,「愛することなしに生きることは出来ない (No se puede vivir sin amar)」という彼の言葉は,心にせまる悲劇的な意味を持っている。これは決して陳腐な言葉ではない。 ルイス修道士は,われわれがイタリア・ルネサンスの何人かの人物に見いだして驚く,普遍的な能力を持っていた。彼は数学者であり,天文学者であり,法学者だった。絵を学んだことはなかったが,かなりのレベルにまで達していた。彼は,神学の文献だけでなく,古典文学にも通じていた。・・・(中略)・・・彼の詩はただ優れているというだけではすまされないなにかをもっている。スペインでは,彼以上に完全な散文を書いたものがいない,とは,すべての人が判断するところだ。ペンを手にしたルイス修道士は,学者であると同時に紳士だった。彼は力強く,というよりは優雅に書いた。・・・(後略) ↑ わ・ん ↑